地下足袋山中考 NO10
<奥森吉の変遷@ 小又峡のダム計画>

  森吉山麓の観光振興を論じる上で、私たちは過去の開発と保護の変遷を把握しておく必要がある。それは、時代の社会の在り様と、そこに住む人々の生活権と密接に絡んで形作られる歴史から、今の時代が求める価値観を探しあてるヒントがあるからだ。18年前に書き記した寄稿文「いま、なぜ、ブナなのか」を紐解いてみた▲奥森吉を語るには、今から75年程さかのぼることになる。1936(S11)の日中戦争勃発の頃、小又峡とその集水域であるノロ川流域(現在のクマゲラの森)は国の天然記念物指定とダム建設計画で国と対峙した歴史があった。当時の新聞記事には、国が進める電源開発計画に、地元前田村による国への5年にわたる陳情合戦と論争が報じられている。▲当時、小又峡に初めて学術的なメスを入れたのは、県史跡名勝天然記念物調査委員の小野進(当時大館中教諭心得・小又峡の命名者)である。小野に調査を依頼したのは当時の前田村大地主・庄司兵蔵氏(先代)で、「村の奥に広がる本砂子沢渓谷の奇勝を広く紹介したい。ついては、中央から権威者を招く前に、下調べをしてもらえないか」との依頼に答えたものであった。小野は1936(S11)6月から1月にわたり調査を実行し、国の天然記念物指定にするように文部省に直訴。彼の詳細な報告もさることながら、あまたの現場写真が文部省を動かした▲その年の8月には本庁の命を受けた脇水鉄五郎博士(当時70歳・理学博士で東大名誉教授)に秋田鉱専の大橋良一教授、県職員、前田村長に助役、営林署長、村議、新聞記者、医師などが加わる一行50名による実地調査が行われた▲その結果、小又峡は「天然記念物として三役以上の価値がある。」と折り紙が付き、同渓谷の名勝天然記念物の指定は疑いなく、実現の暁には十和田湖と共に全県に誇る一景勝地を加えることになるとまで絶賛されていた。▲しかし、時を同じくして昭和12年に日中戦争が始まり、小又峡下流の湯ノ岱地区の無煙炭採掘を計画していた東京市電気化学会社から、エネルギー確保のため発電所計画が県に認可申請された。計画は小又峡の中央部とその上流の二ヶ所に堰堤を築き、その水を全く別の大印沢に引いて二カ所に発電所を築くもので、近く天然記念物として内務省から正式告示を見ようという矢先の小又峡にとっては致命的なものであった。▲世論は名勝保存派と戦争遂行派による大論争に発展した。当時、調査に加わった有識者や前田村、地主庄司家の熱烈な反対運動は一進一退を究めたが、地元は「ダムができれば、付近の放牧地も水没し、全県一(当時)の馬産地(林間放牧地)もつぶれてしまう。物資の増産はできても、軍馬なくして戦争に勝てるか。」と巧みな反対論を組み立て、保護運動を繰り広げた。5年にわたる陳情合戦の軍配はついにダム建設反対派に上がった。▲その後、天然記念物指定は戦争の激化と敗戦の混乱騒ぎで宙に浮いてしまったが、今の小又峡とクマゲラの森は、戦争当時に自然保護など訴えようものなら、国賊扱いされかねない時代に県民世論と地元の熱意によって今に残された歴史的自然遺産なのである。▲その小又峡も1964(S39)4月には県の「名称及び天然記念物」に指定されたが、その規模は奇岩怪石とおう穴が連なる沢筋6q、42f(現在の小又峡入口から上流のノロ川橋まで)のみであった。その後、1968(S43)には森吉山県立自然公園に組み入れられた▲「野を駆ける夢」小野進・伝の著者である渡辺誠一郎氏(当時秋田魁新報社論説委員長)は、その著書の最後で「同じ時代に水力発電のため玉川毒水を田沢湖に流入(1940.S15)させ、死の湖と化した自然破壊とは全く対照的である。学問に裏打ちされた価値観の有無が如何に明暗を分けるものかを示す好個の事例と言ってよかろう。現在の太平湖ダム1953(S28)完成が下流に建設されたことは、確かな学術的検証に裏付けされた小又峡の保護を念頭に置いた証左であった。」と述べている。こんな歴史の一コマを念頭に小又奇峡(当初の命名)を訪ねると、一味違った風景が垣間見えるかもしれない。(資料:旧森吉町図書館新聞資料、「野を駆ける夢」小野進・伝<秋田魁新報社発行>抜粋)<次号へ続く>(2010.7.15